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SS「恋の香り-No.26 絵里子の場合」

 美容師は嫌いだ。オシャレにはひどく敏感で、しかし人の心には恐ろしく鈍感な生き物。一様に、髪を伸ばし髭を生やし、折れそうなほど細い腰と不自然に長い手足。薄い笑顔を浮かべながら、初対面のくせに友達のように話しかけて来る。
「だからオレ思うんだけど、水曜は休みにしちゃえば良いよね、実際」
クリーム状のカラー剤を塗りながら、美容師は大袈裟に肩をすくめて言った。何の話だよと思いながら、私はその視線を避けるように鏡から目を逸らす。
 美容師が嫌いだ。無神経で軽率な男を思い出す。目に掛かるほど伸びたその男の髪は、灰色のようなくすんだ色をしていた。口元には無精髭、不健康に痩せているくせに背はひょろっと高く、いつもへらへらと笑っていた。浩之。浩之はどうしているだろう。もう一年になる。あの性格だ、私のことなど忘れてしまったろう。そんな男を思い出す自分に苛立つ。そして思い出させた美容師に、嫌悪感がまた少し膨らむ。

 出会った当初、浩之はフリーターで、駅から少し離れた雑居ビルの4階にある埃くさいレコード屋で働いていたが、客がほとんど来ないとは言え、気まぐれですぐ休むのでいつの間にかクビになってしまった。クビだってさぁ、と笑う浩之はどこか楽しげにさえ見えた。
「ねぇ、二股かけてるでしょう」そう切り出した時も浩之は笑っていた。いつものようにへらへらと、少しも悪びれずに。
「違うよ、エリコ」長い指が伸びて来て、私の腕を引き寄せる。
「何が違うの。山根が見たって教えてくれた」
「二股じゃない。三、四…四股?」それから私の右耳に囁く「でも一番はお前だから」
耳の中の産毛がぐわっと逆立つのが分かった。
「くたばれっ」考えつく限りの悪態を吐いて、私はその部屋を出た。呆れすぎて涙も出なかった。振り返らなかったし、追っても来なかった。浩之とはそれ以来会っていない。

「はい、おしまーい。イス起こすね」シャンプーを流し終えて美容師が声をかけて来る。その馴れ馴れしい態度は気に入らなかったけど、頭を包み込むタオルの感触は心地良い。彼は深夜番組について話しながら、ごしゃごしゃと私の髪を拭いた。それから淀みない動作で、タオルを絡めた指を 私の耳へ入れようとする。その時、
「やめて。」咄嗟に声が出た自分に驚く。
美容師の動きが一瞬止まり、それから小さく「すいません」と謝るのが聞こえた。
「あの、ごめんなさい。違うんです。少し…くすぐったかったから」
 私が何とか微笑んでみせると、美容師はほっとした表情を浮かべた。そして器用に耳を避けながら、再びタオルドライを始める。

「ありがとうございましたー」
見送る美容師の声を背中に、私は駅へと向かう。アッシュに染めたばかりの髪はまだ特有の刺激臭がした。目にしみるようで思わず歩みを止める。動き続ける町並みの中で今、私だけが立ち止まっている気がした。


━━━それ以来すべてを洗い流したのに右耳はまだ侵されたまま━━━

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